2006-12-28

若き女船長カイの挑戦 ([著]エリザベス・ムーン)

  • 栄光への飛翔 ([訳]斉藤伯好)
  • 復讐への航路 ([訳]斉藤伯好)
  • 明日への誓い ([訳]斉藤伯好・月岡小穂)

先週の週末(2006-12-23、24)にシリーズもの3冊を読了。シリーズタイトルは「若き女船長カイの挑戦」。3作で終わりかなと思っていたら、解説によればどうやら続きが2作ほどあるらしい。

内容は「明日への誓い」の解説にもあるとおり正統派スペース・オペラそのもの。おもしろくないわけじゃない。読んでいる間はそこそこ楽しい。ただ、読んだ後に何も残らない。

アンシブル(いわゆる超光速通信技術の一種)を使った恒星間ネットワークを独占した企業(?)の存在とか、恒星間通商によってゆるやかにつながった星系国家群とか、おもしろそうなネタは転がっているんだけど、物語はどうもそっちの方向に転がってくれそうにない。主人公の葛藤と成長は活劇の基本だとは思うけど、どうにも感情移入ができない。問題の起こりそうな状況で問題が起こらず、その分、唐突に戦争やらテロやらに巻き込まれたり。分量が多い割に、何が書いてあったのかなと読後の満足感が薄い。何でこんなに分厚いのかね。

ところで、この著者のエリザベス・ムーンは「くらやみの速さはどのくらい」という作品の著者でもあって、こちらは訳書(ハヤカワ書房のハードカバー)の帯によれば「21世紀版『アルジャーノンに花束を』」だとのこと。ある意味、べたぼめとも言えるコピーなんだけど、2004年のネビュラ賞受賞作だとのことで、あながち誇張でもないのかも。次はこちらを読んでみようか。

2006-12-14

ウェブ人間論 ([著]梅田望夫, 平野啓一郎)

本を発売日に買うのは最近ではちっとも珍しくないことだけど、発売日に読み出すというのは珍しい。通勤の間だけですでに半分近く(96/203)読み終えている。第二章の半分を越えたあたりだろうか。

両著者の対談の記録という形式。この形式は読む側としては少し「しんどい」。視点が常に複数あるから。小説の中の対話とは異なり、複数の脳(知性)が創り出した主張を並行して消化しつつ読み進むことになるから。かといって、片方の発言だけを拾って読んでいたのでは、それはそれで論理がぶつ切れになってしまい、理解不能になってしまう(そもそも、そんな読み方はしないけど)。

p.92-93あたりで「アイデンティティからの逃走」と題してネット上にある(と信じられている)匿名性について語られている。「匿(とく)」は「かくれる、かくす」の意味(「常用字解 ([著]白川静)」より)を持つから、つまりは「(実)名をかくす」ということ。 これまで匿名性というのは膨大な母集団に埋没してしまうことによって生まれる、個体識別および追跡の高コスト化によって持たらされたもの、と認識していた(以前、そういう記述を何かの雑誌の記事で読んだ)。基本的には、その線は正しいと今も思うけれど、今日、この「名をかくす」の「名」について、ふと思いついたことがある。この「名」は単に実名ととらえるよりも、ネット上で獲得したアイデンティティのことではないだろうか。そして、ネット上での匿名性は「名をかくすことができる」というよりも「名を使い捨てにできる」という方が適当ではないか、と。

2chタイプの掲示板では、固定ハンドル名を使うとか、あのIDはわたしですと自ら名乗らない限り、アイデンティティは一時的なものにしかならない。いつだって捨てられるし、また簡単に別のものを手に入れられる。ブログなら、たとえ実名でなかったとしても、長く続けていればやはりそこには単なる個性を超えた人格が認知される。だとしても「たかがネット」(p.93)だから、特殊な状況を除いて比較的簡単に「名を捨てることができる」。実名ならそれは難しいと思われるかもしれないけど、ネットにべったりと住みついているのでもない限り切り捨てることは可能だ。実生活で夜逃げをするよりは簡単なはず。

ただし、ネットの場合は捨てることはできても消えてくれるとは限らない。実生活でなら人の記憶やら噂は1年もたたない間に薄れてなくなってしまう。ネットだと、たとえブログやら掲示板の書き込みを消せたとしても、どこにコピーがあるかわかったもんじゃない。ブラウザやらプロキシのキャッシュに残っているだろう。それに最近はGoogleっていう巨大な集積場がある。こいつは人類の知の集積もやってくれるけれど、同時にゴミや恥ずかしい記憶の集積もやってくれる。

そういう意味ではネットではやはり匿名で(というか実名を隠して)活動する方が良いのかもしれない。とくに若い内は。年齢を重ねるとたいていの人は自分が若いときにやったことや言ったことに対して(顔から火が出るほどに)恥ずかしく思うようになるから。

2006-12-13

ビジネス脳はどうつくるか ([著]今北純一)

TIME HACKS! ([著]小山龍介)」に続いての通勤の友。My Life Between Silicon Valley and Japanで紹介されていて、ふと興味を引かれたので、また最寄りの書店で探したらすぐに見つかったので、買ってみた。薄い本だったのでカバンに放り込んだ。で、80ページあたりまで読んだところ。

第1章でGoogleの企業としてのミッションについての言及が出てくる。Googleの公式ブログなんかを読んでいると何度もお目にかかるもので、たとえば以下のように Corporate Information の先頭に掲げられている。

Google's mission is to organize the world's information and make it universally accessible and useful.

日本語のページもあるけど、ミッションを定義したこの文章は英語の原文の方が雰囲気が出てる。

著者は、企業のみならず個人にとってもミッションを持つと言うことが未来を自ら切り開くために重要だと言う。「自分がやりたいこと」「やらねばならないこと」、それが自分のミッション。これを明確に意識することができれば、厳しい状況の中でも自分を見失わずに生きていける。人生を楽しむことができる、すなわち幸福でいられるのだ、と。

第2章はグローバル化について。p.39-40のグローバル化のポジティブな面とネガティブな面の説明では、「フラット化する世界 ([著]トーマス・フリードマン, [訳]伏見威蕃)を連想した(これも別口で読んでいて、今、下巻に取りかかったところ; たまにしか読まないからなかなか進まない)。

2006-12-11

TIME HACKS! ([著]小山龍介)

先週後半あたりから通勤の友にして、今日、読了。「IDEA HACKS! ([著]原尻淳一, 小山龍介)」の続編のような内容。今作では時間管理に焦点を当てている。

前作でもそうだが、これはマニュアル本というよりも、それぞれのhackの背景にある考え方を知ることが重要。テクニックそのものは人によって合う合わないがあるから。紹介されている方法がそのまま楽しく便利に実行できる人もいれば、肌に合わない人もいるだろう。けれど、その根底に流れるアイデアそのものは万人に共通のものだ。この「TIME HACKS!」について言えばそれは「時間の構造化」。

周囲で起きる事象に対応するだけのイベントドリブンな暮らしから抜け出し、慢性的な「忙しさ」を解消するには、自分の時間を構造化する必要がある。単純に、時間を節約し、作業の効率を上げ、有効に使うというだけじゃない。総量を把握し、リズムを作り、1週間、3ヶ月、3年、10年というフレームを設計していく。それがTIME HACKS。

話はちょっとずれるが、#73(p.179)で紹介されているIDEOという会社についての2冊の本に興味を引かれたので買ってきた。「発想する会社! ([著]トム・ケリー & ジョナサン・リットマン, [訳]鈴木主税/秀岡尚子)」と「イノベーションの達人! ([著]トム・ケリー & ジョナサン・リットマン, [訳]鈴木主税)」だ。どちらもちょっと大きくて重いので通勤の友には向かない。興味の消えないうちに読み始めるかな。

2006-12-10

Google誕生 ([著]デビッド・ヴァイス/マーク・マルシード, [訳]田村理香) #4

8章から11章を読んだ。広告を表示することで収益を上げるというビジネスモデルを選んだGoogleがその規模を飛躍的に拡大していく過程が描かれている。

検索結果に広告を表示する方法、広告から広告料を集める方法、Googleらしくテクノロジーとイノベーションによってこれらを改善する。米国の検索エンジンとしてスタートしたGoogleが、ユーザは世界中に広がっていることに気付く。AOLやAsk Jeeves(Askは検索エンジンとしては競合相手でもある)といった企業との提携を実現し、検索技術や広告表示技術の業務提供を始める。また、9章では現CEOであるエリック・シュミットが参加し、いよいよ巨大企業への道を進み始める。

今回読んだ部分でとくに興味を引かれたのは8章にある以下の一節。

エリック・シュミットは、グーグル社のCEOに就任するやいなや、サーゲイとラリーに重要な質問をぶつけてきた。それは二人が今まで考えたことのない問題点を突いた質問だった。グーグルを使って検索している人たちはどこで検索をしているのかね? そして広告を出している企業はどこからその広告を入れているんだい?
(p.157)

Googleは米国の企業として誕生した。しかしその提供するサービス(価値)は誕生当初から米国に留まるものではなかったのだ。当時は(ひょっとしたら今も?)ウェブ上の情報の多くは米国内に存在していた。一方でそれらに価値を見出す人々は世界中にいた。(特殊な状況下にある場合を除けば)インターネット上には国境はない。コンテンツはローカルに集中していても、ユーザはグローバルに拡散していたのだ。それから数年、今ではコンテンツも世界中に存在している。Googleのサービスも(そしてビジネスも)グローバルに展開されるようになった。中心である検索と広告のサービスは言うに及ばず、Gmailのように比較的新しいものも多数の言語に展開し、提供されている。

Googleは誕生した瞬間からグローバルな存在であることを運命づけられていたのだ。

2006-12-09

銃・病原菌・鉄 ([著]ジャレド・ダイアモンド, [訳]倉骨彰) #2

前回より続いて、第8章、第9章、そして第10章を読み終えた。

現在の人類社会における不平等(今風の言葉を使うなら、格差)の起源である食料生産の開始時期の地域差はいかにして生じたのか。第8章では農作物の裁培化について、第9章では大型哺乳類の家畜化について、それぞれ地域差となった要因を解明することで、その問いに答える。さらに第10章では、裁培化・家畜化された動植物が各地に伝播する速度に差があり、その速度差が大陸による格差を広げたのだと補足する。

裁培化も家畜化も早期にそれを成功できたのは、それを実施した人々が(他の地域の住民よりも)優れていたからではなく、そこに生育していた植物や動物がたまたま裁培化、家畜化に適した遺伝的特徴を持っていたから。また、こうした技術は単純なものから複雑なものへと一歩、一歩発展するものだ。最初の簡単なステップに成功しなければ、より複雑な(たいていは困難な)技術を開発・確立することはできない。このため、最初に運良く成功できた者だけが更に発展するサイクルを開始することができた。

こうした相違をあげたのは、世界各地で広く裁培されている農作物を称賛するためではない。初期のユーラシアの農民が、他の大陸の住民よりも創意工夫に優れていたことを証明するためでもない。こうした相違は、アメリカ大陸やアフリカ大陸が南北に長い陸地であるのに対し、ユーラシア大陸が東西に長い大陸であることの反映といえる。そして人類の歴史の運命は、このちがいを軸に展開していったのである。
(p.286)

第2部の終わりとなる第10章は、こうしめくくられている。つまりはすべて偶然の結果によるもの。「持てるもの」と「持たざるもの」の違いは遠い過去のちょっとした運の差で決まってしまったのだ。

主役は自己複製子「ミーム」 ([著]スーザン・ブラックモア, [収]日経サイエンス2001年1月号)

ここ数年、いろいろな雑誌で、過去の内容をCD-ROMやDVD-ROMに収められて販売するものが増えてきた。日経サイエンスも2000-2004年分をDVD-ROMで、2005年をCD-ROMで販売している。紙媒体はデジタル化された媒体(PDF等)にくらべて見易さという点ではすぐれているものの直接検索できないという点では劣っている。こうしたCD-ROMやDVD-ROMからPDFをHDDにコピーしてしまえば、(Mac OS Xであれば)Spotlightでざくざくと検索できるようになる。今日、読んだ記事もそうしてHDDにコピーし検索して見つけたもの。日経サイエンスの他の記事(「幸福の手紙に潜む進化のルール ([著]C.H.ベネット/M.リー/B.マ, [収]日経サイエンス2003年9月号)」)を読んでいて(これは紙媒体が残っていたので紙面で読んだ)、「ミーム」という言葉を思い出し、このブラックモアの記事に至った。

この記事で、著者のブラックモアはヒトという生物種は遺伝子とミームという2つの自己複製子を持つと主張する。従来の遺伝子だけによる進化という枠組みでは人類のすべて、とくにその文化的・社会的な側面を説明し切れないという。

ヒトの特徴ともいうべき「学習」(この記事では「模倣」というより一般的な言葉が使われている)も、ミームの複製(伝播)に都合が良い。それどころか、ミームのためにこそあると言っても良いように思える。生物種としての進化の過程で、個体の生存に有効なミームを効果的に獲得、蓄積できることが種の存続(つまり遺伝子の複製)にとって有利となった。これにより学習能力が(ヒトにおいて)急速に進化することとなり、肥大化したその能力がついには生存とは無関係なミームにとっても増殖の機会を提供することとなる。こうしてジーン(遺伝子)とミームは共進化し始めたのだ、と著者は言う。今では、ジーンよりもミームの方が主導権を握っているのだ、とも。

ミームの視点から見れば,すべての人類はより多くのミームを作り出すための機械だ。人類は増殖のための乗り物,複製される機会提供物で,利用をめぐって競合する資源だ。私たちは自らの遺伝子の奴隷でもなく,自らの幸福のために文化,芸術,科学技術をつくりだす理性的で自由意思による行動者でもない。むしろ,私たちは遠大な進化過程の一部であり,そこではミームが進化する自己複製子となり,私たちがミームマシーンとなっている。
(p.61)

これは驚くべき(興味深い)考え方だ。われわれは「利己的なジーン(遺伝子)の乗り物」であると同時に、いやそれ以上に「利己的なミームの複製装置」でもあるのだ。

ミームという概念はとてもおもしろく、この記事で著者がいうようにヒトの、生物としては無意味であったり、時には生存に不利に働くような進化の方向性を説明する枠組みになるのかもしれない。ただ、これを読む限りではまだ科学の一領域として確立されるには至っていない(というか、それにはほど遠い?)ようだ。著者自身が科学として成功するためには「効果的で検証可能な予測を示す」必要があると最後に結んでいる。

ちなみに、ミームという言葉はリチャード・ドーキンスが著書「利己的な遺伝子」の中で最初に使ったとのこと。手元にある紀伊國屋書店版(1991年発行)では「11 ミーム --新たな自己複製子-」(p.301-321)になる。

この記事が思いのほかおもしろかったので、ブラックモアの著作「ミーム・マシーンとしてのわたし」をAmazonで発注してしまった。

2006-11-28

Google誕生 ([著]デビッド・ヴァイス/マーク・マルシード, [訳]田村理香) #3

6章と7章を読んだ。6章は「グーグル・ドゥードゥル」(たまにGoogleのロゴが変わるやつ)の誕生について。加えてGoogleの心臓(頭脳?)というべきコンピュータ群のこと。7章はGoogleが広告から利益を上げる仕組みを作り上げるまで。

6章のGoogleの見た目(ユーザビリティというべき?)の改良のためのユーザテストで、テスターたちがページが表示されるまで長く待っていたというエピソードは興味深い。Googleのページ(トップや検索結果)の下部に必ず表示されるコピーライト表示にそんな意味(これでこのページの中身は終わりという印)があったとは思わなかった。

広告については・・・そう、必要なときというか、あってうれしい場合もあるんだ。そうでない場合の方が圧倒的に多いけど。でもそれは広告自体の存在が悪だというのではなくて、過剰に垂れ流すしかできない今の広告表示技術の方に問題があるのだ(とくにTVのCMなど)。広告であれ何であれ、必要としている人に過不足ない情報を届ける。そんな仕組みが整備されれば広告も(有用な)コンテンツになる。

銃・病原菌・鉄 ([著]ジャレド・ダイアモンド, [訳]倉骨彰)

入手したのは2000年のこと。上巻を読み切るあたりで放り出してあった。おもしろくないわけじゃなかったんだけど。今回、勤労感謝の日と週末で上下巻ともに読破しようと、改めて最初から読み始めた。もちろん、思惑通りには読み進めず、ようやく第8章に入ったところ。

紀元前11,000年頃に人類は地球のほぼすべての陸地に暮らすようになった。そこから人類の歴史が始まると言ってもいい。というのも、その時点ではヒトの暮らしに大きな差異は見られなかったからだ。人類発祥の地であるアフリカ大陸に住む人々も、一番後になって人類が居住するようになった南北アメリカ大陸に住む人々も、同じような暮らしぶりだった。現在の世界に見られるような地域による格差は無いに等しかった。すべての差はその後の歴史の中で生まれたのだ。

人類史の大部分を占めるのは、「持てるもの(Haves)」と「持たざるもの(Have-nots)」とのあいだで繰り広げられた衝突の数々である。しかもこの衝突は、対等に争われたものではなかった。つまり、人類史とは、その大部分において、農耕民として力を得た「持てるもの」が、その力を「持たざるもの」や、その力を後追い的に得たものたちに対して展開してきた不平等な争いの歴史であった。
(p.133)

この本の主題は、この不平等がなぜ生じだのか、という問いに答えることだ。著者はその差の起源は食料生産にあったのだと言う。

つまり食料生産を他の地域に先んじてはじめた人びとは、他の地域の人たちより一歩先に銃器や鉄鋼製造の技術を発達させ、各種疫病に対する免疫を発達させる過程へと歩み出したのであり、この一歩の差が、持てるものと持たざるものを誕生させ、その後の歴史における両者の絶えざる衝突につながっているのである。
(p.148)

では、食料生産の開始時期の地域差はなぜ生じたのだろう。と、仮説と検証が続いていく。このサイクルがおもしろい。最後にどんな結論が導かれるのか楽しみだ。

読んでいて思ったことは、「これは歴史の本だろうか。それとも科学の本だろうか」ということ。著者が展開して見せてくれるのは人類の歴史というよりも、ヒトという生物種の地球という惑星における発展モデルだ。シミュレーションと言ってもいい。描き出される姿は必然というよりは偶然から始まる因果の連鎖だ。もし、初期条件が少し変わっていたら・・・。つい、そんなことを考えてしまう。

最近、邦訳の出た同じ著者の「文明崩壊」も手に入れてある。というより、それを入手したことで、この本のことを思い出したのだ。

2006-11-20

Google誕生 ([著]デビッド・ヴァイス/マーク・マルシード,[訳]田村理香) #2

5章を読み終えた。この章で、サーゲイとラリーはGoogleを会社としてスタートさせ、さらにベンチャーキャピタルから巨額の融資を得ることに成功する。つまり、いよいよGoogleが始動することになる。それが1998年の秋から翌年の夏にかけてのこと。章の終わりはこうなっている。

しかし、それでも根本的な質問には答えることはできなかった。依然として謎は残っていた。グーグルは一体どうやって金を稼ごうとしているのか?
(p.111)

2006年の今、Googleがどうやって金を稼いでいるかはみんなが良く知っている。でも事の始まりにおいてはどうだったのか。この先でそれが明らかになるのか!

実はこの本を読みつつ当時(1998年や1999年あたり)のことを思い出そうとしているのだけれど、ほとんど思い出せない。インターネットへの接続は確保していたように思うけど(ダイアルアップかな)、Googleを使っていただろうか?最初に使っていたサーチエンジンはYahoo!だった気がする。今ではすっかりGoogle好きになったけど、それがいつ頃からだったか。それも記憶のもやの向こうに消えてしまってわからない。

MIND HACKS ([著]Tom Stafford, MattWebb, [訳]夏目大) #3

8章を読んだ。ここではヒトの脳がさまざまな構造(空間、時間、因果)をどのように認識するのか、その仕組みと傾向が明かされる。近くにあるものはひとまとまりだと思い(#75)、同時に起きていることはひとまとめに感じる(#76)。ヒトやその他の生き物のように動く何かは、それが本当は何であれヒトや生き物のように思い込む(#77、#78)。それが脳の働きなのだとわかる。

と、ここまではおもしろく読めたんだけど、続く#79(因果関係の認知)と#80(「自分の意志」の認知)を読んで、少し恐くなった。たとえば#79ではこう書かれている。

このように因果関係を理解する時、我々は意識的に推論を行う必要はない。時間をかけて推論をしなくても、脳は瞬時に因果関係を理解するのである。
(p.308)

この部分はいい。ああ、便利な脳で良かったと思うだけだ。けれど続く次の段落を読むと、ちょっと不安になる。

意識も努力も必要ないということは、逆に言うと、錯視などと同様、我々の意思とは関係なしに自動的に行われるということでもあり、たとえこの機能を停止したくても停止できないということである。
(p.308)

完全無欠な機能であれば自動的に動いてくれても問題ない。けれど、こいつはときどき間違うのだ(それが、すぐ後で示される簡単な実験で体験できる)。いや、気付いていないだけで、実はしょっちゅう間違っているんじゃないか?

#80ではさらに不安が増す。

「観念運動現象」などの現象が存在することは、脳が自らの「意志」の存在を直接認識するメカニズムを持っていないということを意味する。
(p.314)

自分の意志(思考)が行動の原因だと感じられるのは、それがただ短い時間の間に続いて起こったからに過ぎないというのだ。言い換えると、何か外的要因による行動であったとしても、それに思考が(短かい時間だけ)先行していれば、そこに因果関係を認識してしまう。つまり、その行動が自分の思考によるものだと錯覚してしまう、というのだ。

この脳ってやつが、だんだん信用できなくなってきた。あれ、そう考えているのはどの脳なんだろう??

参考リンク

2006-11-19

人体 失敗の進化史 ([著]遠藤秀紀) #3

ほとんど通勤の電車の中で読んだが、わずかに残っていた数ページを本日(2006-11-19)読了。

進化を「設計変更」の、それも行きあたりばったりのやっつけ仕事のような変更の蓄積として捉えるという視点は新鮮でおもしろかった。進化の本というとたいていは、突然変異という偶然の積み重ねがこんなにも見事な適応を生むんですよ、というような内容になっている。この本を読んだあとでは、ヒトについては言うに及ばず、すべての生物がボロボロの設計図を抱えて、苦闘している姿しか見えなくなってしまった。みんな大変なんだな、と。

ただ、最後の終章はグチにしか読めない。ここにこそ著者の声がこめられているのだろうが、読む方からすればない方が良い。

2006-11-14

人体 失敗の進化史 ([著]遠藤秀紀) #2

第二章を読み終わり、第三章に入ったところ。第二章では、進化という名の設計者が生物の身体に残した設計変更の数々が明かされる。中でも鳥に空を飛ばせるための設計変更は、何というか、身につまされるものがある。無茶な仕様変更をどうにか間に合わせで実装しました、というプログラマの疲れた表情が思い浮かぶから。

ドーキンスの「盲目の時計職人」を思い出した。視点が異なるから読み比べてみるのもおもしろいかも。

2006-11-13

Google誕生 ([著]デビッド・ヴァイス/マーク・マルシード,[訳]田村理香)

入手したのは数ヶ月前(2006-09ぐらい)。いくつかあるGoogle本の中から比較的新しかったのでこれを選んだ。すぐに読み出そうと枕元に積んであったが、なかなか読み進めなかった。ようやく読み始めて、今3章の半ばあたり。

知りたいのはGoogleの物語。とくにその始まり。何をしようとしていたのか。そして実際には何をしてきたのか。Appleの場合の「マッキントッシュ誕生物語」(原題: Insanely Great)のような物語を知りたい。

これを読み進まない内に、他にも2冊ほどGoogle本を入手ずみ。「ザ・サーチ ([著]ジョン・バッテル,[訳]中谷和男)」「Google 最強のブランド戦略 ([著]ニール・テイラー,[訳]石原薫)」。一気に読み切ることができるか?(ムリだって)

2006-11-12

メイズプリズンの迷宮回帰 ([著]上遠野浩平) #2

本日(2006-11-12)、読了。

今作で東澱三兄弟の長男も(少しだけ)登場し、主要登場人物もそろそろ出揃ったというところか。一方で新しく登場したキャラクターたちもいる。一回切りで退場となるのか、この先も繰り返し登場するのか。今回登場の刑事は東澱の末妹の一味として再登場しそうな雰囲気だけど。

2006-11-11

人体 失敗の進化史 ([著]遠藤秀紀)

最近、ブログなどで紹介されていた本を買うということが時々ある。これもそんな一冊。「進化」を「設計変更」の累積として捉えているところが気になった。

「クオリア入門」に挫折気味なので(まだカバンに入れてあるけれど)、新たな通勤の友として読み始めた。序章、第一章と読み終わり、第二章を読み始めたところ。

本筋からはずれるけれど、第一章で目を引かれたのは・・・

・・・いまでは、哺乳類を生んだとされていた爬虫類の系統進化の考え方が大きく変わり、哺乳類は爬虫類を介さずに、根源的には両生類から直接生じたとする方が妥当だとされるようになっている。両生類のような脊椎動物から、ニワトリに行く爬虫類の系統と、ヒトに至る哺乳類の系統が、かなり古い時代にまったく別の進化の道を歩み始めているというのが、本当らしい。
(p.37 - 38)

という部分。中学や高校で習い覚えたこととは変わってきているようだ。今の中学生や高校生はどう覚えさせられているのか。学究の世界における知識の変化が子どもたちの教育の内容に反映されるのにはどれぐらい時間がかかるのか。さらにそれが一般常識(と言われるもの)として広まるのにどれだけの時間が必要なのか。そんなことをふと考えた。

2006-11-07

メイズプリズンの迷宮回帰 ([著]上遠野浩平)

ソウルドロップシリーズ(というよりペイパーカットシリーズ?)の三作目。1/3ほど読んだところ。シリーズの内容をすっかり忘れていたのでこの作品を読む前に「ソウルドロップの幽体研究」と「メモリアノイズの流転現象」を読み返した(斜め読み)。

ブギーポップシリーズと世界観と設定を共有している(らしい)。向こうのおもしろさが「世界の敵」にあるとすれば、こちらは「生命と同等の価値のあるもの」にあるのか。それはオレンジ味の飴玉であったり、子供にはちょっと大きめの水筒であったり、古い写真であったりする。今作ではそれは何だろう?

2006-11-05

邪魅の雫 ([著]京極夏彦) #2

予定どおり三連休の内に読了。複数の事件が重なるようで重ならず、つながるようでつながっていない。そんな印象がずっとつきまとう内容だったが、京極堂の登場ですっきりと解決。ある意味では「絡新婦の理」の鏡像とでも言うべき作品だった。

本作では京極堂が死者(事件の被害者たち)の物語を語る場面が登場する。彼らが事件とどのように関わり、何故死んでしまったのか、それを死者の視点から再構成する。それを読んでいて、ふと「死者の代弁者」([著]オースン・スコット・カード)を思い出した。

2006-11-01

邪魅の雫 ([著]京極夏彦)

発売日に買ってきてからほぼ一ヶ月。ずっと読み始める機会をうかがいつつ枕元に積んであった。例によって例のごとくの分厚さのため、まとまった時間が取れ、なおかつ気合いが入らないと読み切れないなぁ、となかなか手をつけられずにいた。昨夜、ふと手にとりパラパラとページをめくる内に読み始めてしまった。現在、160ページを越えたあたり。京極と関口のかけあいが始まったところだ。総ページ数817の内の1/5を読んだことになる。ま、今週末は三連休。そこで読み切ることができるだろう。それにしても寝転んで読むのにはツラい重量だよな。

ちなみに京極の作品との出会いは、その新書らしからぬ分厚さに驚いて手に取った「姑獲鳥の夏」(うぶめのなつ)。1994年の発行だけど、買ったのは1996年のようだ。もう10年だ。京極堂のシリーズ、手元にそろっているのでちょっと書き出してみる。

書名 ふりがな 初版発行年月 総ページ数
姑獲鳥の夏 うぶめのなつ 1994/09 429
魍魎の匣 もうりょうのはこ 1995/01 683
狂骨の夢 きょうこつのゆめ 1995/05 577
鉄鼠の檻 てっそのおり 1996/01 825
絡新婦の理 じょろうぐものことわり 1996/11 829
塗仏の宴 宴の支度 ぬりぼとけのうたげ うたげのしたく 1998/03 613
塗仏の宴 宴の始末 ぬりぼとけのうたげ うたげのしまつ 1998/09 635
陰摩羅鬼の瑕 おんもらきのきず 2003/08 749
邪魅の雫 じゃみのしずく 2006/09 817

6,157ページ。積み上げると35cmになった。

2006-10-31

蓬莢 ([著]今野敏)

読了したのは先週の土曜日(2006-10-28)。コンピュータのシミュレーションプログラムが小道具として使われているのだけど、それを実行するのがスーパーファミコンだっていうのが時代を感じさせるね(この小説が最初に刊行されたのは1994年)。とはいえ、スーファミで日本の歴史(2000年ほどを丸ごと)をシミュレーションっていうのはいくら何でもムリがありすぎるよな。

2006-10-26

クオリア入門 心が脳を感じるとき ([著]茂木健一郎) #2

第2章を読み終わり、第3章を読み始めた。3つめの節「物理的時間と心理的時間」でおもしろい記述に出会った。それは・・・

シナプスの相互作用に有限の物理的時間がかかっても、それは、心理的時間の中では一瞬に潰れてしまう。
(p.107)

というもの。

「クオリア」はニューロンの発火で生まれ、その発火はシナプスの相互作用の連鎖が引き起こす。それには時間がかかる。たとえ短い時間であっても0(ゼロ)じゃない。ミリ秒が積み重なってクオリアが、そして心が作られるというのだ。クオリアや心と言ってしまうとよくわからないので、あえて語弊を覚悟して「認識」と呼んでしまおう。それで言い換えてみると、認識には物理的時間がかかるけれど人はその時間を認識できない。つまり認識にかかった物理的時間はなかったことになってしまう、ということ。

これって、主観的に時間を長く感じたり、短く感じたりすることを説明しているんじゃないだろうか。何かに集中しているときっていうのは時間を短く感じる。それって脳の中で「認識」が集中的に起こっているために、物理的時間がどんどん潰されていってしまい結果として短く感じる、ということなんじゃないかな。退屈な時間は長く感じる。それは脳で物理的時間を消費するような認識がほとんど起こらないからではないか。

正直言って、この本、かなり読みにくい(わかりにくい)から、ほとんど挫折しそうなんだけど、ここの記述はおもしろかった。この先、またおもしろい部分があるかもしれない。もう少しがんばって読んでみよう。

2006-10-24

MIND HACKS ([著]Tom Stafford, MattWebb, [訳]夏目大) #2

予定した通りに「7章 推論」を読んだ。内容は、人間は計算が苦手で、確率が分からず、論理はあやふや、偽の薬にもダマされる上に、保守的で変化を嫌う、というもの。人間全般に当てはまるかどうかはともかく、わたし自身はここに書かれている通りだった。

Hack #74の「現状維持のバイアス」で人間には「壊れていないものは直すな」という態度が進化の過程で組み込まれた可能性があると書かれている。だとすれば、プログラマはとても人間的だってことだ。プログラマというよりもエンジニア全般かな。動いてるんなら下手にいじらない方が良い。いつだってマーフィーが目を光らせているからね。

2006-10-23

クオリア入門 心が脳を感じるとき ([著]茂木健一郎)

ちくま学芸文庫の一冊。今朝から通勤の友として読み始めたもの。「プロローグ」を読み終わり、第1章の途中まで読んだ。「クオリア」とは何か? この本で言うところの「心」とは何か? 今のところ読むほどにモヤモヤした感じが強くなってくるばかり。読み終えたら、すっきりするだろうか。

2006-10-20

もしもウサギにコーチがいたら ([著]伊藤守) #2

通勤の友としてカバンに入れて持ち歩き、本日読了。 コーチングというのは聞くことなんだな、と思った。この本の大半がうまく聞くこと、聞き出す(引き出す)ことについて書かれているから。あれこれ指導(指図)することではないんだ、とわかった。

確かに考えていることと、行動の間には誤差がありますが、行動はより深く、強く考えていることと結びついています。 (p.216)

表層意識というか、上っつらで考えている部分では行動を左右している思いはわからない、ということか。

2006-10-18

もしもウサギにコーチがいたら ([著]伊藤守)

最初の章「コーチングとは何か」と続く「コーチングのStep 1」を読んだ。別に誰かにコーチングしたいわけじゃない。誰かをコーチングしなければならないわけでもない。いや、一人、コーチングしたい奴がいる。というかコーチングでも何でもしてどうにかしてやりたい奴がいる。どうにもわがままで、怠堕で、何かって言うとすぐに「メンドウだ」と口ぐせのように言う奴が、知り合いに、それもごく近しい知り合いに一人いる。それは自分自身だ。

「コーチングとは何か」は

実際にあなたがウサギをコーチするとなったら、何をどのようにするのか具体的な策が必要です。・・・(中略)・・・この状況でウサギが考えを変え、自発的に行動を変えるようになるために、「あなたがコーチならウサギとどう接するか」について考えてみてください。 (p.31)

としめくくられている。この「ウサギ」を「自分自身」に置き換えて読んでみよう。それで、できれば自分自身が

個人の能力をいかんなく発揮し、仕事や人生そのものを豊かにする (p.27)

ことができるようにコーチしてやろう。

2006-10-16

MIND HACKS ([著]Tom Stafford, MattWebb, [訳]夏目大)

「序文」と「はじめに」を読んだ。「序文」で気に入ったフレーズは「脳は・・我々の意図とは無関係に・・自動的に動いている」というもの。メタっぽい書き方に引かれる。意識がどこからやってくるのかは、正直どうでも良いけれど、その背後の自動機械としての脳がある、というのはおもしろい。また「はじめに」では、心の成立ち(脳の仕組み)を知ることで「自分だどうやって動いているのか」についての理解が深まる、とある。これも同じ理由でおもしろい。

どこから読んでも良いとのことなので、この先まずは「7章 推論」から読み進めよう。「人間は・・純粋な論理は苦手である。・・論理的思考について見ていく」となっているから。論理が苦手だという背景に自動機械としての脳があると思うと、これまたおもしろい。

2006-10-12

漱石文明論集 ([編]三好行雄)

『私の個人主義』を読んだ。初めてこの講演記録に触れたのは、中学か高校の教科書だった。以来、何度になるか。 今日思い至ったことがある。それは、前半に書かれていることは、成長のプロセスだったんだ、ということ。漱石の言葉を借りれば、おう悩(か、漢字が出ない)の果てに啓発を得る。 これは人が人生の中で何度も繰り返すことで、その度に成長する。あまり、おう悩したくはないけど、悩むことなしに成長もない。

2006-10-10

シリコンバレー精神/グーグルを生むビジネス風土 ([著]梅田望夫)

通勤のともとして電車の中で少しずつ読んで来たが、今日で読了。読んでいる間は、仕事って何だろう? 働くって何だろう? そんなことをよく考えた。

紅一点論 ([著]斎藤美奈子)

枕元に積んで少しずつ読んで来たが、先ほど読了。おもしろい。文体も読みやすい。同じ著者の他の作品も読みたくなった。近所の書店で探してみよう。

白骨の語り部/作家六波羅一輝の推理 ([著]鯨統一郎)

2時間弱で読了。『邪馬台国・・・』のような作品を期待しては裏切られ続けてる。

2006-10-09

知的生産の技術 ([著]梅棹忠夫)

2、3度目の読み返しかな。読む度に思う、この本で言う知的生産の技術って(京大式)カードとその利用法のことなのか、 と。今ならブログかwikiの活用方法となるか。この本が出版されてから約40年。道具は間違いなく進歩したけれど、知的生産の技術の本質となるとどうだろうか。