2006-12-28

若き女船長カイの挑戦 ([著]エリザベス・ムーン)

  • 栄光への飛翔 ([訳]斉藤伯好)
  • 復讐への航路 ([訳]斉藤伯好)
  • 明日への誓い ([訳]斉藤伯好・月岡小穂)

先週の週末(2006-12-23、24)にシリーズもの3冊を読了。シリーズタイトルは「若き女船長カイの挑戦」。3作で終わりかなと思っていたら、解説によればどうやら続きが2作ほどあるらしい。

内容は「明日への誓い」の解説にもあるとおり正統派スペース・オペラそのもの。おもしろくないわけじゃない。読んでいる間はそこそこ楽しい。ただ、読んだ後に何も残らない。

アンシブル(いわゆる超光速通信技術の一種)を使った恒星間ネットワークを独占した企業(?)の存在とか、恒星間通商によってゆるやかにつながった星系国家群とか、おもしろそうなネタは転がっているんだけど、物語はどうもそっちの方向に転がってくれそうにない。主人公の葛藤と成長は活劇の基本だとは思うけど、どうにも感情移入ができない。問題の起こりそうな状況で問題が起こらず、その分、唐突に戦争やらテロやらに巻き込まれたり。分量が多い割に、何が書いてあったのかなと読後の満足感が薄い。何でこんなに分厚いのかね。

ところで、この著者のエリザベス・ムーンは「くらやみの速さはどのくらい」という作品の著者でもあって、こちらは訳書(ハヤカワ書房のハードカバー)の帯によれば「21世紀版『アルジャーノンに花束を』」だとのこと。ある意味、べたぼめとも言えるコピーなんだけど、2004年のネビュラ賞受賞作だとのことで、あながち誇張でもないのかも。次はこちらを読んでみようか。

2006-12-14

ウェブ人間論 ([著]梅田望夫, 平野啓一郎)

本を発売日に買うのは最近ではちっとも珍しくないことだけど、発売日に読み出すというのは珍しい。通勤の間だけですでに半分近く(96/203)読み終えている。第二章の半分を越えたあたりだろうか。

両著者の対談の記録という形式。この形式は読む側としては少し「しんどい」。視点が常に複数あるから。小説の中の対話とは異なり、複数の脳(知性)が創り出した主張を並行して消化しつつ読み進むことになるから。かといって、片方の発言だけを拾って読んでいたのでは、それはそれで論理がぶつ切れになってしまい、理解不能になってしまう(そもそも、そんな読み方はしないけど)。

p.92-93あたりで「アイデンティティからの逃走」と題してネット上にある(と信じられている)匿名性について語られている。「匿(とく)」は「かくれる、かくす」の意味(「常用字解 ([著]白川静)」より)を持つから、つまりは「(実)名をかくす」ということ。 これまで匿名性というのは膨大な母集団に埋没してしまうことによって生まれる、個体識別および追跡の高コスト化によって持たらされたもの、と認識していた(以前、そういう記述を何かの雑誌の記事で読んだ)。基本的には、その線は正しいと今も思うけれど、今日、この「名をかくす」の「名」について、ふと思いついたことがある。この「名」は単に実名ととらえるよりも、ネット上で獲得したアイデンティティのことではないだろうか。そして、ネット上での匿名性は「名をかくすことができる」というよりも「名を使い捨てにできる」という方が適当ではないか、と。

2chタイプの掲示板では、固定ハンドル名を使うとか、あのIDはわたしですと自ら名乗らない限り、アイデンティティは一時的なものにしかならない。いつだって捨てられるし、また簡単に別のものを手に入れられる。ブログなら、たとえ実名でなかったとしても、長く続けていればやはりそこには単なる個性を超えた人格が認知される。だとしても「たかがネット」(p.93)だから、特殊な状況を除いて比較的簡単に「名を捨てることができる」。実名ならそれは難しいと思われるかもしれないけど、ネットにべったりと住みついているのでもない限り切り捨てることは可能だ。実生活で夜逃げをするよりは簡単なはず。

ただし、ネットの場合は捨てることはできても消えてくれるとは限らない。実生活でなら人の記憶やら噂は1年もたたない間に薄れてなくなってしまう。ネットだと、たとえブログやら掲示板の書き込みを消せたとしても、どこにコピーがあるかわかったもんじゃない。ブラウザやらプロキシのキャッシュに残っているだろう。それに最近はGoogleっていう巨大な集積場がある。こいつは人類の知の集積もやってくれるけれど、同時にゴミや恥ずかしい記憶の集積もやってくれる。

そういう意味ではネットではやはり匿名で(というか実名を隠して)活動する方が良いのかもしれない。とくに若い内は。年齢を重ねるとたいていの人は自分が若いときにやったことや言ったことに対して(顔から火が出るほどに)恥ずかしく思うようになるから。

2006-12-13

ビジネス脳はどうつくるか ([著]今北純一)

TIME HACKS! ([著]小山龍介)」に続いての通勤の友。My Life Between Silicon Valley and Japanで紹介されていて、ふと興味を引かれたので、また最寄りの書店で探したらすぐに見つかったので、買ってみた。薄い本だったのでカバンに放り込んだ。で、80ページあたりまで読んだところ。

第1章でGoogleの企業としてのミッションについての言及が出てくる。Googleの公式ブログなんかを読んでいると何度もお目にかかるもので、たとえば以下のように Corporate Information の先頭に掲げられている。

Google's mission is to organize the world's information and make it universally accessible and useful.

日本語のページもあるけど、ミッションを定義したこの文章は英語の原文の方が雰囲気が出てる。

著者は、企業のみならず個人にとってもミッションを持つと言うことが未来を自ら切り開くために重要だと言う。「自分がやりたいこと」「やらねばならないこと」、それが自分のミッション。これを明確に意識することができれば、厳しい状況の中でも自分を見失わずに生きていける。人生を楽しむことができる、すなわち幸福でいられるのだ、と。

第2章はグローバル化について。p.39-40のグローバル化のポジティブな面とネガティブな面の説明では、「フラット化する世界 ([著]トーマス・フリードマン, [訳]伏見威蕃)を連想した(これも別口で読んでいて、今、下巻に取りかかったところ; たまにしか読まないからなかなか進まない)。

2006-12-11

TIME HACKS! ([著]小山龍介)

先週後半あたりから通勤の友にして、今日、読了。「IDEA HACKS! ([著]原尻淳一, 小山龍介)」の続編のような内容。今作では時間管理に焦点を当てている。

前作でもそうだが、これはマニュアル本というよりも、それぞれのhackの背景にある考え方を知ることが重要。テクニックそのものは人によって合う合わないがあるから。紹介されている方法がそのまま楽しく便利に実行できる人もいれば、肌に合わない人もいるだろう。けれど、その根底に流れるアイデアそのものは万人に共通のものだ。この「TIME HACKS!」について言えばそれは「時間の構造化」。

周囲で起きる事象に対応するだけのイベントドリブンな暮らしから抜け出し、慢性的な「忙しさ」を解消するには、自分の時間を構造化する必要がある。単純に、時間を節約し、作業の効率を上げ、有効に使うというだけじゃない。総量を把握し、リズムを作り、1週間、3ヶ月、3年、10年というフレームを設計していく。それがTIME HACKS。

話はちょっとずれるが、#73(p.179)で紹介されているIDEOという会社についての2冊の本に興味を引かれたので買ってきた。「発想する会社! ([著]トム・ケリー & ジョナサン・リットマン, [訳]鈴木主税/秀岡尚子)」と「イノベーションの達人! ([著]トム・ケリー & ジョナサン・リットマン, [訳]鈴木主税)」だ。どちらもちょっと大きくて重いので通勤の友には向かない。興味の消えないうちに読み始めるかな。

2006-12-10

Google誕生 ([著]デビッド・ヴァイス/マーク・マルシード, [訳]田村理香) #4

8章から11章を読んだ。広告を表示することで収益を上げるというビジネスモデルを選んだGoogleがその規模を飛躍的に拡大していく過程が描かれている。

検索結果に広告を表示する方法、広告から広告料を集める方法、Googleらしくテクノロジーとイノベーションによってこれらを改善する。米国の検索エンジンとしてスタートしたGoogleが、ユーザは世界中に広がっていることに気付く。AOLやAsk Jeeves(Askは検索エンジンとしては競合相手でもある)といった企業との提携を実現し、検索技術や広告表示技術の業務提供を始める。また、9章では現CEOであるエリック・シュミットが参加し、いよいよ巨大企業への道を進み始める。

今回読んだ部分でとくに興味を引かれたのは8章にある以下の一節。

エリック・シュミットは、グーグル社のCEOに就任するやいなや、サーゲイとラリーに重要な質問をぶつけてきた。それは二人が今まで考えたことのない問題点を突いた質問だった。グーグルを使って検索している人たちはどこで検索をしているのかね? そして広告を出している企業はどこからその広告を入れているんだい?
(p.157)

Googleは米国の企業として誕生した。しかしその提供するサービス(価値)は誕生当初から米国に留まるものではなかったのだ。当時は(ひょっとしたら今も?)ウェブ上の情報の多くは米国内に存在していた。一方でそれらに価値を見出す人々は世界中にいた。(特殊な状況下にある場合を除けば)インターネット上には国境はない。コンテンツはローカルに集中していても、ユーザはグローバルに拡散していたのだ。それから数年、今ではコンテンツも世界中に存在している。Googleのサービスも(そしてビジネスも)グローバルに展開されるようになった。中心である検索と広告のサービスは言うに及ばず、Gmailのように比較的新しいものも多数の言語に展開し、提供されている。

Googleは誕生した瞬間からグローバルな存在であることを運命づけられていたのだ。

2006-12-09

銃・病原菌・鉄 ([著]ジャレド・ダイアモンド, [訳]倉骨彰) #2

前回より続いて、第8章、第9章、そして第10章を読み終えた。

現在の人類社会における不平等(今風の言葉を使うなら、格差)の起源である食料生産の開始時期の地域差はいかにして生じたのか。第8章では農作物の裁培化について、第9章では大型哺乳類の家畜化について、それぞれ地域差となった要因を解明することで、その問いに答える。さらに第10章では、裁培化・家畜化された動植物が各地に伝播する速度に差があり、その速度差が大陸による格差を広げたのだと補足する。

裁培化も家畜化も早期にそれを成功できたのは、それを実施した人々が(他の地域の住民よりも)優れていたからではなく、そこに生育していた植物や動物がたまたま裁培化、家畜化に適した遺伝的特徴を持っていたから。また、こうした技術は単純なものから複雑なものへと一歩、一歩発展するものだ。最初の簡単なステップに成功しなければ、より複雑な(たいていは困難な)技術を開発・確立することはできない。このため、最初に運良く成功できた者だけが更に発展するサイクルを開始することができた。

こうした相違をあげたのは、世界各地で広く裁培されている農作物を称賛するためではない。初期のユーラシアの農民が、他の大陸の住民よりも創意工夫に優れていたことを証明するためでもない。こうした相違は、アメリカ大陸やアフリカ大陸が南北に長い陸地であるのに対し、ユーラシア大陸が東西に長い大陸であることの反映といえる。そして人類の歴史の運命は、このちがいを軸に展開していったのである。
(p.286)

第2部の終わりとなる第10章は、こうしめくくられている。つまりはすべて偶然の結果によるもの。「持てるもの」と「持たざるもの」の違いは遠い過去のちょっとした運の差で決まってしまったのだ。

主役は自己複製子「ミーム」 ([著]スーザン・ブラックモア, [収]日経サイエンス2001年1月号)

ここ数年、いろいろな雑誌で、過去の内容をCD-ROMやDVD-ROMに収められて販売するものが増えてきた。日経サイエンスも2000-2004年分をDVD-ROMで、2005年をCD-ROMで販売している。紙媒体はデジタル化された媒体(PDF等)にくらべて見易さという点ではすぐれているものの直接検索できないという点では劣っている。こうしたCD-ROMやDVD-ROMからPDFをHDDにコピーしてしまえば、(Mac OS Xであれば)Spotlightでざくざくと検索できるようになる。今日、読んだ記事もそうしてHDDにコピーし検索して見つけたもの。日経サイエンスの他の記事(「幸福の手紙に潜む進化のルール ([著]C.H.ベネット/M.リー/B.マ, [収]日経サイエンス2003年9月号)」)を読んでいて(これは紙媒体が残っていたので紙面で読んだ)、「ミーム」という言葉を思い出し、このブラックモアの記事に至った。

この記事で、著者のブラックモアはヒトという生物種は遺伝子とミームという2つの自己複製子を持つと主張する。従来の遺伝子だけによる進化という枠組みでは人類のすべて、とくにその文化的・社会的な側面を説明し切れないという。

ヒトの特徴ともいうべき「学習」(この記事では「模倣」というより一般的な言葉が使われている)も、ミームの複製(伝播)に都合が良い。それどころか、ミームのためにこそあると言っても良いように思える。生物種としての進化の過程で、個体の生存に有効なミームを効果的に獲得、蓄積できることが種の存続(つまり遺伝子の複製)にとって有利となった。これにより学習能力が(ヒトにおいて)急速に進化することとなり、肥大化したその能力がついには生存とは無関係なミームにとっても増殖の機会を提供することとなる。こうしてジーン(遺伝子)とミームは共進化し始めたのだ、と著者は言う。今では、ジーンよりもミームの方が主導権を握っているのだ、とも。

ミームの視点から見れば,すべての人類はより多くのミームを作り出すための機械だ。人類は増殖のための乗り物,複製される機会提供物で,利用をめぐって競合する資源だ。私たちは自らの遺伝子の奴隷でもなく,自らの幸福のために文化,芸術,科学技術をつくりだす理性的で自由意思による行動者でもない。むしろ,私たちは遠大な進化過程の一部であり,そこではミームが進化する自己複製子となり,私たちがミームマシーンとなっている。
(p.61)

これは驚くべき(興味深い)考え方だ。われわれは「利己的なジーン(遺伝子)の乗り物」であると同時に、いやそれ以上に「利己的なミームの複製装置」でもあるのだ。

ミームという概念はとてもおもしろく、この記事で著者がいうようにヒトの、生物としては無意味であったり、時には生存に不利に働くような進化の方向性を説明する枠組みになるのかもしれない。ただ、これを読む限りではまだ科学の一領域として確立されるには至っていない(というか、それにはほど遠い?)ようだ。著者自身が科学として成功するためには「効果的で検証可能な予測を示す」必要があると最後に結んでいる。

ちなみに、ミームという言葉はリチャード・ドーキンスが著書「利己的な遺伝子」の中で最初に使ったとのこと。手元にある紀伊國屋書店版(1991年発行)では「11 ミーム --新たな自己複製子-」(p.301-321)になる。

この記事が思いのほかおもしろかったので、ブラックモアの著作「ミーム・マシーンとしてのわたし」をAmazonで発注してしまった。