まとめ
15章。
第15章 クモのいないクモの巣
スケールフリーネットワークは自己組織化する構造であり、クモのいないクモの巣である。
15章。
スケールフリーネットワークは自己組織化する構造であり、クモのいないクモの巣である。
11章から14章。
スケールフリーネットワークの実例としてのインターネット。その歴史と展望がまとめられている。
(p.226)
パラサイト・コンピューティングはこの設定を利用して、コンピュータには普通に通信をさせておきながら、マスターホストのコマンドに応じてコンピュータに強制的に計算をさせようというアイデアだ。これを実行するために、われわれはある複雑な計算問題を、合法的なインターネットのリクエストに見せかけた。コンピュータがパケットを受け取ると、そのパケットが旅の途中で傷まなかったかどうかをチェックする手続きがとられる。その計算をするうちに、コンピュータはわれわれが与えた数学の問題を解き、それをパケットに暗号化して組み込むのである。
これについては聞いたことがなかった。なんというか「SF」的なアイデアだ。ネットのどこかで創発が生まれていたりするのかも。
スケールフリーネットワークの実例としてのWWW。単方向リンクが持たらす特性が示されている。
スケールフリーネットワークの実例としての「細胞内における化学反応」ネットワーク。
これら細胞内のスケールフリーネットワークはどのようにしてできあがったのか?
→ タンパク質のネットワークの場合は、遺伝子コピーの際の遺伝子重複という種類のエラーによって作り上げられたと考えられる。ただ、これが唯一の要因とは限らないし、代謝ネットワークについては、当てはまるかどうか不明。
遺伝子を解読しただけでは生命現象の持つ複雑さ、多様性を説明できない。ネットワークこそがカギとなる。生命の(細胞内の化学反応の)ネットワークを解明することで、ヒトの病気の治療に役立つ。
スケールフリーネットワークの実例としての「経済(ビジネス)世界で見られる様々なネットワーク」
これらビジネスの世界におけるネットワークがスケールフリーネットワークの特性を示すことの事例として以下が挙げられている:
9章と10章。
ハブを持つネットワーク(適応度付きの成長するスケールフリーネットワーク)は以下のような特性を持つ:
(第9章の続き)
ハブを持つネットワークは以下のような特性も持つ:
言い方を変えれば、これがネットワーク(ハブを持つ・・・)の中を「何か」が拡散するときに示す特性。
2章から8章まで。
第1章がこの部分。
邦題の副題にもなっているように、世界のしくみを理解することが本書の目的。ネットワークの理論を通して、世界を見るということ。
「序章 理性の限界とは何か」と「第一章 選択の限界」を読んだ。序章を読んでいるときはそれほどおもしろそうには思わなかった。第一章を読んで印象が変わった。いやあ、オモシロイ。
アロウの不可能性定理(Wikipediaでの表記はアロー)っていうのは初めて知ったのだけど、これが何ともおもしろい。民主主義っていうか、選挙に代表されるような投票という行為をモデル化し、「おいおい、お前らが大事にしている民主主義って、実は不可能なんだぜ」ってことを証明してしまった、とか。それでノーベル賞(経済学)を受賞した、とか。
もちろん、不可能なのはモデル化された民主主義(それも完全民主主義っていうらしい)であって、実在の制度やら何やらに不備があるとかどうとうか、そういうことではない。まあ、第一章を読んでいると、不備だらけだろっ、って思えるけど。
オモシロイのは民主主義が不可能だとかそういうことではなくて、民主主義なんていう数学(や科学)とはおよそかけ離れたところにありそうなモノが、少数の条件(この本では 2 + 4 で 6つの条件が挙げられている)でモデル化できるってこと。この定理の存在を知ることができただけでも、この本を買って読んだ(まだ 1/3 だけど)価値がある。
序章では、人間の理性(哲学系らしいからねえ、科学系ならヒトの知能とか知性って表現するだろうけど)に対して 3 つの限界を提示している。すなわち「選択の限界」「科学の限界」「知識の限界」。このうち「選択の限界」に当たるのがアロウの不可能性定理だ。残りの 2 つは、それぞれ「ハイゼンベルクの不確定性原理」と「ゲーデルの不完全性定理」。サブタイトルにある 3 つの「不*性」がここに現れる。
これもRSS講読しているブログで紹介されていた一冊。どこのブログだったかはもうわからなくなってしまった。
Wikipediaによればスーパーコンピュータとは「内部の演算処理速度がその時代の一般的なコンピュータより非常に高速な計算機(コンピュータ)のこと。」となっている。とくに汎用、専用の別はなく、とにかくその時代で一番速いコンピュータたちのことだ。本書で描かれているのは専用の高速計算機の方。天文学における重力シュミレーションに特化した計算機を創る物語。
読みやすいし、当時の熱気みたいなものも伝わってくる。良く書かれたノンフィクションだ。ただ、残念なのは肝心のGRAPEを開発する過程の記述があっさりとしていること。「モノづくり」のおもしろさはディテールにこそ宿るのだと思う。いくつかの写真と回路図だけでは十分に伝わらない。
本書の中盤にあたる第3章から第5章が、タイトルにもある20万円のスーパーコンピュータ、GRAPE-1の開発に関する記述。プロジェクトに関わった人たちの関係や思いが丁寧に描かれているだけに、影の主役であるGRAPEの記述が少ない気がする。費用や期間では単純に評価できない苦労の部分をもっと知りたくなった。
本文にはできなくても、付録という形ならディテールを書けたんじゃないだろうか。開発ノートがあったそうだから、それを再構成するなりして。新書だからムリがあるか。
観察などによるデータ収集 → 仮説の形成(帰納的推論) → 予測を導く(演繹的推論) → 予測の実験的確認 → (A)(A)で予測が誤りであれば「反証」されたことになり「仮説の再構成」に、正しければ「確証」されたことになり「仮説が真に近づく」と。 5章で「さわりの部分」だけが紹介されている科学の方法(仮説演繹法)に対する批判に関して、もっと知りたくなったかな。
生物学的な進化を離れ、人の文化が進化するという観点に立ち、さまざまな先人たちの研究の結果を持ち出しては、これはミーム理論と似ているけど違う、充分で はない、と切り捨てていく。文化の進化を唱えるほぼすべての研究者たちが、その源泉を生物的な遺伝子に求めているが、それは適切ではない、と。
「人間の行 動を十二分に理解するためには、遺伝子淘汰とミーム淘汰の両方を考慮しなければならない」(p.93)。
まとめとして、ミーム現象を説明するために既成の科学は役に立たない、それはゼロから構築しなければならない、と。
まだ、風呂敷を広げている最中かな。どう折りたたんでいくつもりかしら。
人 間は地球上の他のいかなる生物とも似ていない点を持つ。それは「模倣」することである。他の生(動物)は模倣をしない(できない)、またはごくまれにし か行わない。「模倣」によって伝わる何か、それが「ミーム」。遺伝子と同じく「利己的」な自己複製子である。ただし、ミーム理論はまだ認められた学説とは なっていない。
自己複製子が変異、淘汰および保持という三つの大きな要件の下に置かれたとき、進化 は不可避である。進化の過程はアルゴリズムであり、基質に対して中立的(基質が何であれそれは機能する)。ただし、進化というアルゴリズムの結果を予測す ることはできない。実際に動かしてみなければ何が得られるかはわからない。自己複製子としてのミームは、上記の三大要件を満たす。単独ではうまく模倣され ないミームも、いくつか複合すると模倣の機会が増大することがある。このため、ミーム複合体が生まれる。デネットによれば人間の心や自己(意識)はミーム の相互作用によってつくりだされる(以下、引用の引用):
あらゆるミームが頼りにできる到達すべき安息の地は人間の心である。しかし、人間の心そのものは、ミームたちが自分により都合の良い生息環境にするために脳を再構築するときにつくりだされる人工物なのである
ざっとまとめるとこんなところ。ここまでを2/25あたりに読んだわけだ。軽く斜め読みしつつ、復習をしてみた。
ここ数年、いろいろな雑誌で、過去の内容をCD-ROMやDVD-ROMに収められて販売するものが増えてきた。日経サイエンスも2000-2004年分をDVD-ROMで、2005年をCD-ROMで販売している。紙媒体はデジタル化された媒体(PDF等)にくらべて見易さという点ではすぐれているものの直接検索できないという点では劣っている。こうしたCD-ROMやDVD-ROMからPDFをHDDにコピーしてしまえば、(Mac OS Xであれば)Spotlightでざくざくと検索できるようになる。今日、読んだ記事もそうしてHDDにコピーし検索して見つけたもの。日経サイエンスの他の記事(「幸福の手紙に潜む進化のルール ([著]C.H.ベネット/M.リー/B.マ, [収]日経サイエンス2003年9月号)」)を読んでいて(これは紙媒体が残っていたので紙面で読んだ)、「ミーム」という言葉を思い出し、このブラックモアの記事に至った。
この記事で、著者のブラックモアはヒトという生物種は遺伝子とミームという2つの自己複製子を持つと主張する。従来の遺伝子だけによる進化という枠組みでは人類のすべて、とくにその文化的・社会的な側面を説明し切れないという。
ヒトの特徴ともいうべき「学習」(この記事では「模倣」というより一般的な言葉が使われている)も、ミームの複製(伝播)に都合が良い。それどころか、ミームのためにこそあると言っても良いように思える。生物種としての進化の過程で、個体の生存に有効なミームを効果的に獲得、蓄積できることが種の存続(つまり遺伝子の複製)にとって有利となった。これにより学習能力が(ヒトにおいて)急速に進化することとなり、肥大化したその能力がついには生存とは無関係なミームにとっても増殖の機会を提供することとなる。こうしてジーン(遺伝子)とミームは共進化し始めたのだ、と著者は言う。今では、ジーンよりもミームの方が主導権を握っているのだ、とも。
ミームの視点から見れば,すべての人類はより多くのミームを作り出すための機械だ。人類は増殖のための乗り物,複製される機会提供物で,利用をめぐって競合する資源だ。私たちは自らの遺伝子の奴隷でもなく,自らの幸福のために文化,芸術,科学技術をつくりだす理性的で自由意思による行動者でもない。むしろ,私たちは遠大な進化過程の一部であり,そこではミームが進化する自己複製子となり,私たちがミームマシーンとなっている。
(p.61)
これは驚くべき(興味深い)考え方だ。われわれは「利己的なジーン(遺伝子)の乗り物」であると同時に、いやそれ以上に「利己的なミームの複製装置」でもあるのだ。
ミームという概念はとてもおもしろく、この記事で著者がいうようにヒトの、生物としては無意味であったり、時には生存に不利に働くような進化の方向性を説明する枠組みになるのかもしれない。ただ、これを読む限りではまだ科学の一領域として確立されるには至っていない(というか、それにはほど遠い?)ようだ。著者自身が科学として成功するためには「効果的で検証可能な予測を示す」必要があると最後に結んでいる。
ちなみに、ミームという言葉はリチャード・ドーキンスが著書「利己的な遺伝子」の中で最初に使ったとのこと。手元にある紀伊國屋書店版(1991年発行)では「11 ミーム --新たな自己複製子-」(p.301-321)になる。
この記事が思いのほかおもしろかったので、ブラックモアの著作「ミーム・マシーンとしてのわたし」をAmazonで発注してしまった。
8章を読んだ。ここではヒトの脳がさまざまな構造(空間、時間、因果)をどのように認識するのか、その仕組みと傾向が明かされる。近くにあるものはひとまとまりだと思い(#75)、同時に起きていることはひとまとめに感じる(#76)。ヒトやその他の生き物のように動く何かは、それが本当は何であれヒトや生き物のように思い込む(#77、#78)。それが脳の働きなのだとわかる。
と、ここまではおもしろく読めたんだけど、続く#79(因果関係の認知)と#80(「自分の意志」の認知)を読んで、少し恐くなった。たとえば#79ではこう書かれている。
このように因果関係を理解する時、我々は意識的に推論を行う必要はない。時間をかけて推論をしなくても、脳は瞬時に因果関係を理解するのである。
(p.308)
この部分はいい。ああ、便利な脳で良かったと思うだけだ。けれど続く次の段落を読むと、ちょっと不安になる。
意識も努力も必要ないということは、逆に言うと、錯視などと同様、我々の意思とは関係なしに自動的に行われるということでもあり、たとえこの機能を停止したくても停止できないということである。
(p.308)
完全無欠な機能であれば自動的に動いてくれても問題ない。けれど、こいつはときどき間違うのだ(それが、すぐ後で示される簡単な実験で体験できる)。いや、気付いていないだけで、実はしょっちゅう間違っているんじゃないか?
#80ではさらに不安が増す。
「観念運動現象」などの現象が存在することは、脳が自らの「意志」の存在を直接認識するメカニズムを持っていないということを意味する。
(p.314)
自分の意志(思考)が行動の原因だと感じられるのは、それがただ短い時間の間に続いて起こったからに過ぎないというのだ。言い換えると、何か外的要因による行動であったとしても、それに思考が(短かい時間だけ)先行していれば、そこに因果関係を認識してしまう。つまり、その行動が自分の思考によるものだと錯覚してしまう、というのだ。
この脳ってやつが、だんだん信用できなくなってきた。あれ、そう考えているのはどの脳なんだろう??
参考リンク
ほとんど通勤の電車の中で読んだが、わずかに残っていた数ページを本日(2006-11-19)読了。
進化を「設計変更」の、それも行きあたりばったりのやっつけ仕事のような変更の蓄積として捉えるという視点は新鮮でおもしろかった。進化の本というとたいていは、突然変異という偶然の積み重ねがこんなにも見事な適応を生むんですよ、というような内容になっている。この本を読んだあとでは、ヒトについては言うに及ばず、すべての生物がボロボロの設計図を抱えて、苦闘している姿しか見えなくなってしまった。みんな大変なんだな、と。
ただ、最後の終章はグチにしか読めない。ここにこそ著者の声がこめられているのだろうが、読む方からすればない方が良い。
第二章を読み終わり、第三章に入ったところ。第二章では、進化という名の設計者が生物の身体に残した設計変更の数々が明かされる。中でも鳥に空を飛ばせるための設計変更は、何というか、身につまされるものがある。無茶な仕様変更をどうにか間に合わせで実装しました、というプログラマの疲れた表情が思い浮かぶから。
ドーキンスの「盲目の時計職人」を思い出した。視点が異なるから読み比べてみるのもおもしろいかも。
最近、ブログなどで紹介されていた本を買うということが時々ある。これもそんな一冊。「進化」を「設計変更」の累積として捉えているところが気になった。
「クオリア入門」に挫折気味なので(まだカバンに入れてあるけれど)、新たな通勤の友として読み始めた。序章、第一章と読み終わり、第二章を読み始めたところ。
本筋からはずれるけれど、第一章で目を引かれたのは・・・
・・・いまでは、哺乳類を生んだとされていた爬虫類の系統進化の考え方が大きく変わり、哺乳類は爬虫類を介さずに、根源的には両生類から直接生じたとする方が妥当だとされるようになっている。両生類のような脊椎動物から、ニワトリに行く爬虫類の系統と、ヒトに至る哺乳類の系統が、かなり古い時代にまったく別の進化の道を歩み始めているというのが、本当らしい。
(p.37 - 38)
という部分。中学や高校で習い覚えたこととは変わってきているようだ。今の中学生や高校生はどう覚えさせられているのか。学究の世界における知識の変化が子どもたちの教育の内容に反映されるのにはどれぐらい時間がかかるのか。さらにそれが一般常識(と言われるもの)として広まるのにどれだけの時間が必要なのか。そんなことをふと考えた。
第2章を読み終わり、第3章を読み始めた。3つめの節「物理的時間と心理的時間」でおもしろい記述に出会った。それは・・・
シナプスの相互作用に有限の物理的時間がかかっても、それは、心理的時間の中では一瞬に潰れてしまう。
(p.107)
というもの。
「クオリア」はニューロンの発火で生まれ、その発火はシナプスの相互作用の連鎖が引き起こす。それには時間がかかる。たとえ短い時間であっても0(ゼロ)じゃない。ミリ秒が積み重なってクオリアが、そして心が作られるというのだ。クオリアや心と言ってしまうとよくわからないので、あえて語弊を覚悟して「認識」と呼んでしまおう。それで言い換えてみると、認識には物理的時間がかかるけれど人はその時間を認識できない。つまり認識にかかった物理的時間はなかったことになってしまう、ということ。
これって、主観的に時間を長く感じたり、短く感じたりすることを説明しているんじゃないだろうか。何かに集中しているときっていうのは時間を短く感じる。それって脳の中で「認識」が集中的に起こっているために、物理的時間がどんどん潰されていってしまい結果として短く感じる、ということなんじゃないかな。退屈な時間は長く感じる。それは脳で物理的時間を消費するような認識がほとんど起こらないからではないか。
正直言って、この本、かなり読みにくい(わかりにくい)から、ほとんど挫折しそうなんだけど、ここの記述はおもしろかった。この先、またおもしろい部分があるかもしれない。もう少しがんばって読んでみよう。