2006-11-28

Google誕生 ([著]デビッド・ヴァイス/マーク・マルシード, [訳]田村理香) #3

6章と7章を読んだ。6章は「グーグル・ドゥードゥル」(たまにGoogleのロゴが変わるやつ)の誕生について。加えてGoogleの心臓(頭脳?)というべきコンピュータ群のこと。7章はGoogleが広告から利益を上げる仕組みを作り上げるまで。

6章のGoogleの見た目(ユーザビリティというべき?)の改良のためのユーザテストで、テスターたちがページが表示されるまで長く待っていたというエピソードは興味深い。Googleのページ(トップや検索結果)の下部に必ず表示されるコピーライト表示にそんな意味(これでこのページの中身は終わりという印)があったとは思わなかった。

広告については・・・そう、必要なときというか、あってうれしい場合もあるんだ。そうでない場合の方が圧倒的に多いけど。でもそれは広告自体の存在が悪だというのではなくて、過剰に垂れ流すしかできない今の広告表示技術の方に問題があるのだ(とくにTVのCMなど)。広告であれ何であれ、必要としている人に過不足ない情報を届ける。そんな仕組みが整備されれば広告も(有用な)コンテンツになる。

銃・病原菌・鉄 ([著]ジャレド・ダイアモンド, [訳]倉骨彰)

入手したのは2000年のこと。上巻を読み切るあたりで放り出してあった。おもしろくないわけじゃなかったんだけど。今回、勤労感謝の日と週末で上下巻ともに読破しようと、改めて最初から読み始めた。もちろん、思惑通りには読み進めず、ようやく第8章に入ったところ。

紀元前11,000年頃に人類は地球のほぼすべての陸地に暮らすようになった。そこから人類の歴史が始まると言ってもいい。というのも、その時点ではヒトの暮らしに大きな差異は見られなかったからだ。人類発祥の地であるアフリカ大陸に住む人々も、一番後になって人類が居住するようになった南北アメリカ大陸に住む人々も、同じような暮らしぶりだった。現在の世界に見られるような地域による格差は無いに等しかった。すべての差はその後の歴史の中で生まれたのだ。

人類史の大部分を占めるのは、「持てるもの(Haves)」と「持たざるもの(Have-nots)」とのあいだで繰り広げられた衝突の数々である。しかもこの衝突は、対等に争われたものではなかった。つまり、人類史とは、その大部分において、農耕民として力を得た「持てるもの」が、その力を「持たざるもの」や、その力を後追い的に得たものたちに対して展開してきた不平等な争いの歴史であった。
(p.133)

この本の主題は、この不平等がなぜ生じだのか、という問いに答えることだ。著者はその差の起源は食料生産にあったのだと言う。

つまり食料生産を他の地域に先んじてはじめた人びとは、他の地域の人たちより一歩先に銃器や鉄鋼製造の技術を発達させ、各種疫病に対する免疫を発達させる過程へと歩み出したのであり、この一歩の差が、持てるものと持たざるものを誕生させ、その後の歴史における両者の絶えざる衝突につながっているのである。
(p.148)

では、食料生産の開始時期の地域差はなぜ生じたのだろう。と、仮説と検証が続いていく。このサイクルがおもしろい。最後にどんな結論が導かれるのか楽しみだ。

読んでいて思ったことは、「これは歴史の本だろうか。それとも科学の本だろうか」ということ。著者が展開して見せてくれるのは人類の歴史というよりも、ヒトという生物種の地球という惑星における発展モデルだ。シミュレーションと言ってもいい。描き出される姿は必然というよりは偶然から始まる因果の連鎖だ。もし、初期条件が少し変わっていたら・・・。つい、そんなことを考えてしまう。

最近、邦訳の出た同じ著者の「文明崩壊」も手に入れてある。というより、それを入手したことで、この本のことを思い出したのだ。

2006-11-20

Google誕生 ([著]デビッド・ヴァイス/マーク・マルシード,[訳]田村理香) #2

5章を読み終えた。この章で、サーゲイとラリーはGoogleを会社としてスタートさせ、さらにベンチャーキャピタルから巨額の融資を得ることに成功する。つまり、いよいよGoogleが始動することになる。それが1998年の秋から翌年の夏にかけてのこと。章の終わりはこうなっている。

しかし、それでも根本的な質問には答えることはできなかった。依然として謎は残っていた。グーグルは一体どうやって金を稼ごうとしているのか?
(p.111)

2006年の今、Googleがどうやって金を稼いでいるかはみんなが良く知っている。でも事の始まりにおいてはどうだったのか。この先でそれが明らかになるのか!

実はこの本を読みつつ当時(1998年や1999年あたり)のことを思い出そうとしているのだけれど、ほとんど思い出せない。インターネットへの接続は確保していたように思うけど(ダイアルアップかな)、Googleを使っていただろうか?最初に使っていたサーチエンジンはYahoo!だった気がする。今ではすっかりGoogle好きになったけど、それがいつ頃からだったか。それも記憶のもやの向こうに消えてしまってわからない。

MIND HACKS ([著]Tom Stafford, MattWebb, [訳]夏目大) #3

8章を読んだ。ここではヒトの脳がさまざまな構造(空間、時間、因果)をどのように認識するのか、その仕組みと傾向が明かされる。近くにあるものはひとまとまりだと思い(#75)、同時に起きていることはひとまとめに感じる(#76)。ヒトやその他の生き物のように動く何かは、それが本当は何であれヒトや生き物のように思い込む(#77、#78)。それが脳の働きなのだとわかる。

と、ここまではおもしろく読めたんだけど、続く#79(因果関係の認知)と#80(「自分の意志」の認知)を読んで、少し恐くなった。たとえば#79ではこう書かれている。

このように因果関係を理解する時、我々は意識的に推論を行う必要はない。時間をかけて推論をしなくても、脳は瞬時に因果関係を理解するのである。
(p.308)

この部分はいい。ああ、便利な脳で良かったと思うだけだ。けれど続く次の段落を読むと、ちょっと不安になる。

意識も努力も必要ないということは、逆に言うと、錯視などと同様、我々の意思とは関係なしに自動的に行われるということでもあり、たとえこの機能を停止したくても停止できないということである。
(p.308)

完全無欠な機能であれば自動的に動いてくれても問題ない。けれど、こいつはときどき間違うのだ(それが、すぐ後で示される簡単な実験で体験できる)。いや、気付いていないだけで、実はしょっちゅう間違っているんじゃないか?

#80ではさらに不安が増す。

「観念運動現象」などの現象が存在することは、脳が自らの「意志」の存在を直接認識するメカニズムを持っていないということを意味する。
(p.314)

自分の意志(思考)が行動の原因だと感じられるのは、それがただ短い時間の間に続いて起こったからに過ぎないというのだ。言い換えると、何か外的要因による行動であったとしても、それに思考が(短かい時間だけ)先行していれば、そこに因果関係を認識してしまう。つまり、その行動が自分の思考によるものだと錯覚してしまう、というのだ。

この脳ってやつが、だんだん信用できなくなってきた。あれ、そう考えているのはどの脳なんだろう??

参考リンク

2006-11-19

人体 失敗の進化史 ([著]遠藤秀紀) #3

ほとんど通勤の電車の中で読んだが、わずかに残っていた数ページを本日(2006-11-19)読了。

進化を「設計変更」の、それも行きあたりばったりのやっつけ仕事のような変更の蓄積として捉えるという視点は新鮮でおもしろかった。進化の本というとたいていは、突然変異という偶然の積み重ねがこんなにも見事な適応を生むんですよ、というような内容になっている。この本を読んだあとでは、ヒトについては言うに及ばず、すべての生物がボロボロの設計図を抱えて、苦闘している姿しか見えなくなってしまった。みんな大変なんだな、と。

ただ、最後の終章はグチにしか読めない。ここにこそ著者の声がこめられているのだろうが、読む方からすればない方が良い。

2006-11-14

人体 失敗の進化史 ([著]遠藤秀紀) #2

第二章を読み終わり、第三章に入ったところ。第二章では、進化という名の設計者が生物の身体に残した設計変更の数々が明かされる。中でも鳥に空を飛ばせるための設計変更は、何というか、身につまされるものがある。無茶な仕様変更をどうにか間に合わせで実装しました、というプログラマの疲れた表情が思い浮かぶから。

ドーキンスの「盲目の時計職人」を思い出した。視点が異なるから読み比べてみるのもおもしろいかも。

2006-11-13

Google誕生 ([著]デビッド・ヴァイス/マーク・マルシード,[訳]田村理香)

入手したのは数ヶ月前(2006-09ぐらい)。いくつかあるGoogle本の中から比較的新しかったのでこれを選んだ。すぐに読み出そうと枕元に積んであったが、なかなか読み進めなかった。ようやく読み始めて、今3章の半ばあたり。

知りたいのはGoogleの物語。とくにその始まり。何をしようとしていたのか。そして実際には何をしてきたのか。Appleの場合の「マッキントッシュ誕生物語」(原題: Insanely Great)のような物語を知りたい。

これを読み進まない内に、他にも2冊ほどGoogle本を入手ずみ。「ザ・サーチ ([著]ジョン・バッテル,[訳]中谷和男)」「Google 最強のブランド戦略 ([著]ニール・テイラー,[訳]石原薫)」。一気に読み切ることができるか?(ムリだって)

2006-11-12

メイズプリズンの迷宮回帰 ([著]上遠野浩平) #2

本日(2006-11-12)、読了。

今作で東澱三兄弟の長男も(少しだけ)登場し、主要登場人物もそろそろ出揃ったというところか。一方で新しく登場したキャラクターたちもいる。一回切りで退場となるのか、この先も繰り返し登場するのか。今回登場の刑事は東澱の末妹の一味として再登場しそうな雰囲気だけど。

2006-11-11

人体 失敗の進化史 ([著]遠藤秀紀)

最近、ブログなどで紹介されていた本を買うということが時々ある。これもそんな一冊。「進化」を「設計変更」の累積として捉えているところが気になった。

「クオリア入門」に挫折気味なので(まだカバンに入れてあるけれど)、新たな通勤の友として読み始めた。序章、第一章と読み終わり、第二章を読み始めたところ。

本筋からはずれるけれど、第一章で目を引かれたのは・・・

・・・いまでは、哺乳類を生んだとされていた爬虫類の系統進化の考え方が大きく変わり、哺乳類は爬虫類を介さずに、根源的には両生類から直接生じたとする方が妥当だとされるようになっている。両生類のような脊椎動物から、ニワトリに行く爬虫類の系統と、ヒトに至る哺乳類の系統が、かなり古い時代にまったく別の進化の道を歩み始めているというのが、本当らしい。
(p.37 - 38)

という部分。中学や高校で習い覚えたこととは変わってきているようだ。今の中学生や高校生はどう覚えさせられているのか。学究の世界における知識の変化が子どもたちの教育の内容に反映されるのにはどれぐらい時間がかかるのか。さらにそれが一般常識(と言われるもの)として広まるのにどれだけの時間が必要なのか。そんなことをふと考えた。

2006-11-07

メイズプリズンの迷宮回帰 ([著]上遠野浩平)

ソウルドロップシリーズ(というよりペイパーカットシリーズ?)の三作目。1/3ほど読んだところ。シリーズの内容をすっかり忘れていたのでこの作品を読む前に「ソウルドロップの幽体研究」と「メモリアノイズの流転現象」を読み返した(斜め読み)。

ブギーポップシリーズと世界観と設定を共有している(らしい)。向こうのおもしろさが「世界の敵」にあるとすれば、こちらは「生命と同等の価値のあるもの」にあるのか。それはオレンジ味の飴玉であったり、子供にはちょっと大きめの水筒であったり、古い写真であったりする。今作ではそれは何だろう?

2006-11-05

邪魅の雫 ([著]京極夏彦) #2

予定どおり三連休の内に読了。複数の事件が重なるようで重ならず、つながるようでつながっていない。そんな印象がずっとつきまとう内容だったが、京極堂の登場ですっきりと解決。ある意味では「絡新婦の理」の鏡像とでも言うべき作品だった。

本作では京極堂が死者(事件の被害者たち)の物語を語る場面が登場する。彼らが事件とどのように関わり、何故死んでしまったのか、それを死者の視点から再構成する。それを読んでいて、ふと「死者の代弁者」([著]オースン・スコット・カード)を思い出した。

2006-11-01

邪魅の雫 ([著]京極夏彦)

発売日に買ってきてからほぼ一ヶ月。ずっと読み始める機会をうかがいつつ枕元に積んであった。例によって例のごとくの分厚さのため、まとまった時間が取れ、なおかつ気合いが入らないと読み切れないなぁ、となかなか手をつけられずにいた。昨夜、ふと手にとりパラパラとページをめくる内に読み始めてしまった。現在、160ページを越えたあたり。京極と関口のかけあいが始まったところだ。総ページ数817の内の1/5を読んだことになる。ま、今週末は三連休。そこで読み切ることができるだろう。それにしても寝転んで読むのにはツラい重量だよな。

ちなみに京極の作品との出会いは、その新書らしからぬ分厚さに驚いて手に取った「姑獲鳥の夏」(うぶめのなつ)。1994年の発行だけど、買ったのは1996年のようだ。もう10年だ。京極堂のシリーズ、手元にそろっているのでちょっと書き出してみる。

書名 ふりがな 初版発行年月 総ページ数
姑獲鳥の夏 うぶめのなつ 1994/09 429
魍魎の匣 もうりょうのはこ 1995/01 683
狂骨の夢 きょうこつのゆめ 1995/05 577
鉄鼠の檻 てっそのおり 1996/01 825
絡新婦の理 じょろうぐものことわり 1996/11 829
塗仏の宴 宴の支度 ぬりぼとけのうたげ うたげのしたく 1998/03 613
塗仏の宴 宴の始末 ぬりぼとけのうたげ うたげのしまつ 1998/09 635
陰摩羅鬼の瑕 おんもらきのきず 2003/08 749
邪魅の雫 じゃみのしずく 2006/09 817

6,157ページ。積み上げると35cmになった。