2006-12-14

ウェブ人間論 ([著]梅田望夫, 平野啓一郎)

本を発売日に買うのは最近ではちっとも珍しくないことだけど、発売日に読み出すというのは珍しい。通勤の間だけですでに半分近く(96/203)読み終えている。第二章の半分を越えたあたりだろうか。

両著者の対談の記録という形式。この形式は読む側としては少し「しんどい」。視点が常に複数あるから。小説の中の対話とは異なり、複数の脳(知性)が創り出した主張を並行して消化しつつ読み進むことになるから。かといって、片方の発言だけを拾って読んでいたのでは、それはそれで論理がぶつ切れになってしまい、理解不能になってしまう(そもそも、そんな読み方はしないけど)。

p.92-93あたりで「アイデンティティからの逃走」と題してネット上にある(と信じられている)匿名性について語られている。「匿(とく)」は「かくれる、かくす」の意味(「常用字解 ([著]白川静)」より)を持つから、つまりは「(実)名をかくす」ということ。 これまで匿名性というのは膨大な母集団に埋没してしまうことによって生まれる、個体識別および追跡の高コスト化によって持たらされたもの、と認識していた(以前、そういう記述を何かの雑誌の記事で読んだ)。基本的には、その線は正しいと今も思うけれど、今日、この「名をかくす」の「名」について、ふと思いついたことがある。この「名」は単に実名ととらえるよりも、ネット上で獲得したアイデンティティのことではないだろうか。そして、ネット上での匿名性は「名をかくすことができる」というよりも「名を使い捨てにできる」という方が適当ではないか、と。

2chタイプの掲示板では、固定ハンドル名を使うとか、あのIDはわたしですと自ら名乗らない限り、アイデンティティは一時的なものにしかならない。いつだって捨てられるし、また簡単に別のものを手に入れられる。ブログなら、たとえ実名でなかったとしても、長く続けていればやはりそこには単なる個性を超えた人格が認知される。だとしても「たかがネット」(p.93)だから、特殊な状況を除いて比較的簡単に「名を捨てることができる」。実名ならそれは難しいと思われるかもしれないけど、ネットにべったりと住みついているのでもない限り切り捨てることは可能だ。実生活で夜逃げをするよりは簡単なはず。

ただし、ネットの場合は捨てることはできても消えてくれるとは限らない。実生活でなら人の記憶やら噂は1年もたたない間に薄れてなくなってしまう。ネットだと、たとえブログやら掲示板の書き込みを消せたとしても、どこにコピーがあるかわかったもんじゃない。ブラウザやらプロキシのキャッシュに残っているだろう。それに最近はGoogleっていう巨大な集積場がある。こいつは人類の知の集積もやってくれるけれど、同時にゴミや恥ずかしい記憶の集積もやってくれる。

そういう意味ではネットではやはり匿名で(というか実名を隠して)活動する方が良いのかもしれない。とくに若い内は。年齢を重ねるとたいていの人は自分が若いときにやったことや言ったことに対して(顔から火が出るほどに)恥ずかしく思うようになるから。

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