最近(Leopard をインストールしてからだから、2008/01あたりから)、本の目次を書き写すということをよくやるようになった。VoodooPad というハイパーテキストエディタを使って、本のタイトルを名前とするファイルを作ってそこに目次を書き写す。で、中身を読み進むに応じて、読んだ印象やら引用やら何やら、あれこれをそこにメモしていく。ハイパーテキストはこういう使い方に適している。
で、この「目次を書き写す」という行為には目的があった。目的というよりも、いらだちにも似た思いがあった。それは、読まずにたまっていく本が多い(ほとんど?)中、どの本にどんな内容が書いてあるのかだけでも把握したい、というもの(読めばいいだろ、というツッコミは勘弁)。買って間も無くなら何が書いてあるのか、いや少なくとも何を読みたくて買ったかは覚えている。時間がたつと記憶も思いも薄れる。それどころか、どんな本を買ったのかということすら忘れていることがある(これは年をとったせいか?)。
技術的な本なら、目次にはキーワードやら内容の概略やらが表れている。それをデジタルファイルの形に変換しておけば「検索」できる。具体的に言えば、Spotlight が届くようになる。
こんな動機で「目次写し」を続けているのだけど、「本を読む本 ([著]M.J.アドラー/C.V.ドーレン, [訳]外山滋比古/槇 未知子, [版]講談社学術文庫)」 に、まさにこれに相当する手法が書かれていた(p.39 - 51)。すなわち、「点検読書」の最初のステップである「組織的な拾い読み、または下読み」(の一部)に相当する。このステップは以下のように細分化されている:
- 表題や序文を見ること。
- 本の構造を知るために目次を調べる。
- 索引を調べる。
- カバーに書いてあるうたい文句を読む。
- その本の議論のかなめと思われるいくつかの章をよく見ること。
- ところどころ拾い読みしてみる。
ここまでで点検読書の前半(最初のステップ)が終わる。ここまでに数分間から長ければ一時間をかける。これにより、その本のことが(読む前よりも)よくわかったはずだし、何より「もっと深く分析して読む必要があるかないかがわかった」はずだ、と著者は言う。さらに、「いつでも参照できるように、頭の中の図書カタログにおの本がきちんと納められているはず」だとも。わたしの場合、この部分については生身の脳が信頼性に欠けるので、Mac (と Spotlight)に任せてある。
さて、点検読書の後半は何か? それは「表面読み」。とにかく読み通すこと。最初はそれだけを心がける。わからないところはひとまず置いて先に進み、通読する。難しいところは再読、三読の機会にとっておく。これの肝は以下の引用にある考え方。
世の中には「拾い読み」にも値しない本が多いし、さっさと読み通す方がよい本もかなりある。ゆっくりとていねいに読んで、完全に理解しなくてはならない本はごく少数しかない。速読の方が向いている本に時間をかけるのは無駄というものだ。
点検読書は何のためにやるのか? それは、より深い読み方をする価値があるかどうかを判定するため、である。
ふむふむ。つまりわたしの読書レベルは、最近ようやく点検読書の前半をやるようになった、というところか。これまでは点検読書のことなど思いもせず、最初のページから読み始めて、ひっかかりがあるとそこから進まず、その結果通読できずに放り出すことが多かったからなあ。そのくせ、小説なんかはストーリー(結末)が気になって、どんどん飛ばし読みになったりする。読み方がちぐはぐだったのか・・・orz
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