2008-10-05

ハイドゥナン (上/下) ([著]藤崎慎吾, [版]ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

蛍女」が生き物がすべてつながっているんだ〜、という物語だったとすれば、「ハイドゥナン」は地球にあるもの(地球を形づくっているもの)すべてがつながっていたっていいじゃん、というような物語。

記憶が情報の蓄積だというなら、素子(ユニット)の状態の変化によって情報を蓄積できるというなら、そして万物は相互作用によって存在の状態を変化させるというなら、石に記憶があったって不思議じゃない。記憶の集積が人格だというなら、石の集合(である地球)に意識があってもおかしくない。

仮に、石の記憶が幽か(かすか)なものであっても、大きな塊になれば量から質への転化が起きるかもしれない。たとえ、相互作用がとてもゆっくりとしたものであっても、億年という単位でなら意味をつむげるかもしれない。

ここまでは良いんだけど、ここから先、つまり石の記憶、地球の意識が、ヒトという意識を顕在化させた存在と対話できるんじゃないか、となるとちょっと飛躍がある。ここで言う「ヒトの意識の顕在化」っていうのは石や地球のそれにくらべて、単位質量(?)当たりの情報処理量とその速度が文字通り、ケタ違いであるという意味。

地球が意識を持つのは良い、古来一部のヒトはそれを感知することができそれを神と呼んだ、それも良い。けど、その神と言語によってリアルタイム(ヒトの時間感覚)で対話できるというのは、さすがにちょっとファンタジーだ。

神(地球の意識)とその巫女が人々を導くという物語の流れは良いとして、事態を収める剣は「科学」であり、剣を振るうのは神とは交流できない(普通の)人々だと描いてほしかった。けれど、それは人類中心の古い価値観(自然観)なのだろう。

ちなみに、この作品はすでにハヤカワ文庫JAとして文庫化されている(4分冊!)。

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